朝のブログ

人生雑感です。

神の目など無い…『それでもボクはやってない』のシブい後味

※あらすじも結末も検索したら出てきますが、本編の内容に触れるので一応ネタバレ注意です。

 

アマプラで監督・周防正行、主演・加瀬亮の『それでもボクはやってない』を観ました。

とても面白かったです。

観るのは今回で2回目で、1回目は何年か前テレビで放送されていたのをちらっとだけ観たことがある程度でした。

なぜこのタイミングで観ることになったかというと、アマプラのラインナップで目に入ったことと最近なんとなく司法制度に意識が向いていたことから。

 

大まかなあらすじとしては、加瀬亮演じる徹平が就職面接に行く途中の満員電車内で、女子中学生を痴漢したとして逮捕されてしまう。やってないと主張する徹平は、弁護人や家族友人と協力して不起訴処分・無罪判決を得ようと奮闘する。

 

作品の主なテーマは痴漢冤罪と刑事裁判の手続をリアルに描写することで刑事事件における人権軽視へ警鐘を鳴らすことでしょうか。

細かな手続や雰囲気をしっかりと描写しているのにドキュメンタリーにせず、社会派の映画作品として見せようという点がとても良かったです。

 

キャストは、主演は加瀬亮で、おそらく本作でこの人のファンになった方も多いのではないでしょうか。さらに、『Shall we ダンス?』では主演を務めていた役所広司、また小日向文世竹中直人のような経験豊富な俳優だけでなく、山本耕史大森南朋瀬戸朝香鈴木蘭々田中哲司野間口徹もたいまさこ等素晴らしい役者さん達が脇を固めます。

特に、当初徹平の裁判を担当していた裁判官役の正名僕蔵さんの演技が好きでした。

 

ストーリーの展開は徹平の冤罪を晴らすことに終始しますが、冤罪をかけられたらこれを覆すのはとても大変なことだということが伝わってきて辛かったです。

演出込みだとしても、痴漢事件の被疑者に対する刑事の威圧的な態度や、検察官の嫌悪感丸出しな取調べのシーンも徹平視点で見ると中々に憤りを感じさせるものでありました。

そして、最後は、有罪判決後、徹平の裁判及び裁判官への失意の表情と「それでもボクはやってない」のモノローグに続いて「控訴」を表明して締め括りでした。

 

ここから私が感じたシブい後味について書きます。※シブいは、退屈と言う意味ではなく、表面的ではなく噛み締めた味わいがある面白さがあるという意で使っています。

 

まず、徹平視点から見れば本当に悔しく、情けなく、又は怒りを感じざるを得ない、そういう顛末でした。自分は痴漢をしていないのになぜ捕まらなければならないのか。なぜ取調べで自白を強要され、当番弁護士から示談を進められなければならないのか。当初から納得できない刑事手続のオンパレードだったと思います。

検察官からは「絶対に嘘を暴いてやるぞ」的な態度で取調べをされ、自分の主張を聞いてくれず、さらに捜査も望む通りには行ってはくれない。裁判でも、徹平は自分たちで痴漢現場の再現をしたり、服の繊維の鑑定依頼をしてなんとか立証不十分に持ち込もうとしますが、どれも功を奏せず。結局は、痴漢被害者の証言一つだけで有罪判決を下されてしまい、「疑わしきは被告人の利益に」の建前は存在しない世界かのようでした。

真実を見極める場の司法手続なのに、警察・検察・裁判所はそれぞれ犯罪の検挙・起訴・有罪判決を得ることに執着しているようにしか見えません。そういう描写でした。

 

おそらく、周防監督としてもこの作品を通して痴漢冤罪(もしくは単に冤罪)事件の被疑者・被告人の置かれたあまりにも不合理な立場というものを伝えたかったのだと思うので、その意図はしっかりと観る者に感じさせる作品になっているかと思います。

 

しかし、以上の徹平又は冤罪被疑者の視点ではなく、警察や検察側に立ってみるとどうでしょう。

自分が取調べを行う側だとしたら、もしかしたらこの犯人は嘘をついているのかもしれない、本当はやっているのだとしたらこれを見逃してはならない、そういう思いで職務に当たると思います。その手段としてある程度威圧的になることもあるかもしれません。(違法捜査は勿論ダメです。)

調書を勝手に書くことは許されないまでも、有罪認定に傾きやすい証拠資料のみを法廷に提出するのも戦略の一つとも言えます。

 

また、この映画の冒頭では、徹平とは別の男性が痴漢として捕まって、はじめは否定するも、大森南朋が演じる刑事にすごまれたら途端に態度を豹変させ痴漢を認める、という描写があります。

この描写は、当初は、違法すれすれの捜査が常態化していることを批判的に伝えたかったのだと思いました。

しかし、観終わった後は、違う意図も込められているのではないかとも思いました。

すなわち、痴漢だと言われたら嘘をついて逃げようとする被疑者がいることもまた事実なのでしょう。そうだとすれば、このような場合にはある程度厳し目の取り調べが有効で、毎日のように事件を扱う警察関係者にとってはその有効な方法を採る方がよほど刑事司法の適切な運用を図ることができるではないか。

おそらく冒頭の描写ではそのようなことを伝える意図も込められていたのではないかと思います。

 

続けて、徹平の取調べをした検察官の、否認を続ける徹平に対して「それなら被害者が嘘をついているっていうのか。」という発言が印象に残りました。

徹平を責めているような発言ではありますが、被害者の存在というものを視聴者に改めて気づかせてくれる重要な発言でした。

視聴者はずっと徹平視点で話を追っているため、どうしても徹平の言うことを信じてあげて欲しいというスタンスでその他の人間を評価してしまいます。しかし、この言葉で、検察官には検察官としての職務があることに気付かされます。

 

徹平は「それでもやってない」と言うけれど、これを信じるのは本人と視聴者だけで、実際に嘘か本当か判断することはほぼ不可能です。”それでも本当はやっているかもしれない”という見方も同様に存在するのです。

 

また、裁判所でのやりとりも徹平にとっては不利なものでした。しかし、裁判は真実を明らかにする場ですが、神の目から判断するわけではありません。あくまで上がってきた人証書証その他の証拠から一定の事実を確認することしかできません。それ故、自分の主張する事実と異なる事実が認定されることも起こりうるのです。そんな不合理不条理さがよく表現されていたと思います。

 

この映画を観て、自分が冤罪容疑をかけられた人間だったとしたら、憤りを感じます。しかし、自分が警察や検察官又は裁判官で、見ず知らずの冤罪容疑者を捜査し、裁く側に立ったとしたら、果たして同じように思えるでしょうか。 

 

刑事司法手続の目的である真実発見と人権擁護を両立させることの難しさを感じさせる、そんな作品でした。

 

 

それでもボクはやってない

それでもボクはやってない

  • 発売日: 2014/09/03
  • メディア: Prime Video