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【感想】映画『ファイト・クラブ』:理想の自分を追い求めた末に出会えたものは

※映画『ファイト・クラブ』の感想です。ネタバレあり。

 

1.はじめに

 『ファイト・クラブ』は、1999年にアメリカで製作されました。監督はデヴィッド・フィンチャーチャック・パラニュークの同名小説が基になっています。

 この映画は、「ブラピが出ているから」、「フィンチャー監督だから」、「サブリミナルが話題になった作品だから」、「バイオレンスな描写があるから」等、とっかかりはなんでもよいので色々な人に観て欲しいです。

 自分は展開の抑揚が少ない退屈な映画が好みなのですが、この映画は少し異質なので何回か観ています。

 ただの破壊衝動の発露をテーマにしたとか、どんでん返しが魅力などという作品ではありません。いやもしかしたらそういう面はあるかもしれませんが、それに尽きないというか一言で言い表せない要素が詰まっている、そんな作品です。

 

2.ストーリー

 この映画は前半と後半、さらに終盤とで全く違う顔を見せます。すなわち、主人公の平凡な暮らしぶりから、マーラやタイラー・ダーデンとの出会い、タイラーとの共同生活とファイト・クラブの成り立ちまでの前半部分は、美しさすら感じるスムーズなストーリー展開。それに対し、「プロジェクト・メイヘム」作戦やタイラーの真の姿などが明らかになる後半部分は、悪い意味で心が不安定に踊り続ける展開となっています。

 内容に触れる前に、前半部分だけあらすじを書きます。以下の通りです。

 (やや長文)

 主人公(エドワード・ノートン)は自動車会社に勤務する平凡なサラリーマン。退屈で孤独な毎日で西欧家具を買うことくらいしか楽しみがない生活ゆえか、いつしか不眠症に。医者の勧めでセラピーとして睾丸がん患者の集いに参加したところ、ぐっすり眠れるようになり、主人公はすっかりはまってしまう。

 安眠と精神安定のため毎日のように開かれている他の集会にも顔を出していると、ある時から自分と同じように色々な集会に参加しているマーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)のことが目につき始める。

 相も変わらず仕事だけの毎日を送る主人公。ある日、出張から帰って目にしたものは、爆発した自宅だった。家をなくして途方に暮れた主人公は、飛行機で出会った「一回限りの友人」のタイラー・ダーデンブラッド・ピット)に連絡を取る。

 タイラーと酒を交わした後、店を出たところで、タイラーから唐突に「自分を殴ってくれ」と頼まれる主人公。主人公は困惑しながらもタイラーを殴り、お返しに自分を殴らせる。次第にヒートアップして殴り合いに発展するが、主人公は不思議な高揚感と満足感で満たされていた。

 タイラーと共同生活を始めることになった主人公は、夜な夜な飲み屋に足を運んではタイラーと殴り合いをするようになる。この殴り合いは回を重ねる毎に参加者が増えていき、いつしか口外禁止の”ファイト・クラブ”として、街中の男達の危険な社交場となっていった。

 冒頭から物語は淀みなく流れ、ここまでだけでも十分に楽しめます。

 

3.孤独な自分と理想の自分

 本作の一つの見所は、タイラー・ダーデンの正体です。

 タイラーは、サングラスをかけ革ジャンに襟の広い柄シャツを着て、肉体的で喧嘩が強く、タバコを吸い酒に溺れ、女を荒々しく抱く、見るからに危険な香りのする男性です。かたや主人公は、平凡な見た目で退屈な生活を送る孤独なサラリーマン。対比するように全てが反対の二人です。

 しかし、この似て非なるタイラーは、実は主人公が頭の中で作り上げた存在であり、その姿は自分の思い描く理想の自分像なのでした。

 物語のクライマックスで明かされるこの真実は、自分が初めて本作を観たとき、半分予想外で、半分なるほどと思いました。例えば、泊まりに来ていたマーラに帰るように告げた時のマーラの反応が少しおかしかったことなど、主人公とテイラーの行動に違和感を覚える箇所がいくつかあるからです。それでも、主人公は夢遊病か何かかな、という程度の違和感でしかありませんでしたが。

 また、最後まで見て流れるエンドロールの冒頭で、視聴者は一つの事実に気付きます。それは、主人公の名前が分からないということです。キャスト欄に記されるはずの主人公の名前は”Narrator”と表記されているのみで、流れるエンドロールを目で追っても出てきません。主人公役のエドワード・ノートンがまさにそのナレーターとしてクレジットされているからいくら待っても出てこないのは当然です。

 なぜ主人公の名前が明かされないのか。それはおそらく、タイラーと主人公の名前が異なると、いわゆる多重人格者の物語となってしまうから、それと区別するために名前をあえてナレーター(語り手)としたのでしょう。

 個人的には、タイラーの存在を、多重人格や乖離性人格障害といった言葉で価値付けるのは誤りだと思います。単純に、自分の中に潜むもう一人の自分への希求というだけで説明は十分だと思います。誰しも心の中に天使と悪魔がいるように、主人公にはタイラーがいたのです。もしくは、『ファウスト』に登場するメフィストフェレスのような存在でもあるかもしれません。

 

4.理想の自分への違和感

 タイラーと共に生活を始めた当初は、主人公は最高の日々でした。

 しかし、タイラーが集団を作り始めたあたりから、次第に主人公はタイラーの行動に違和感を覚えはじめます。

 理想の自分の思うままに行動したら、反社会的行為に走り過ぎ、退屈な人生からの脱却という枠を超えて、単なるテロリストと化していくことに潜在的に気付いたのでしょう。

 この微妙な精神状態は、構成員の一人であるエンジェル・フェイスとのファイトで明確に発現しました。普段のファイトでは、勝敗に関わらず満足感や高揚感を得ることができている様子でしたが、その時は全く違い恐ろしい表情でエンジェルフェイスの顔面を殴り続けました。その異常な様相に観客はドン引きし、タイラーからは「サイコボーイ」と呼ばれる始末。この異常行動は、主人公の中の理想と良心の葛藤の発露といえます。

 この葛藤が、ラストのタイラーとの対峙につながるのです。

 

5.素晴らしい役者たち

 タイラーを演じたブラッド・ピットが格好良いです。当時36歳。タイラー・ダーデンの危険な魅力をブラピは完璧に演じています。

 また、主人公役のエドワード・ノートンは最高です。本作は全編通して主人公の目線で物語が進行しますが、ノートンの演技の巧さがあるから、観客は主人公に全幅の信頼を置いてしまうのです。

 そしてマーラ役のヘレナ・ボナム=カーターも絶妙な存在感を放っています。集会でコーヒー片手にタバコの煙を吐く様が最高です。

 

6.危険思想の扇動ではない

 本作は、ファイト・クラブという名の通り、バイオレンスな描写が何回もあります。また、(テロリスト)集団が建物を爆発するなど破壊活動を行う場面もあります。そのため、暴力賛美や過激派思想を煽る映画と敬遠される見方も存在します。

 しかし、本作は、上記の通り誰しもが持つ別の人生への希求を皮肉混じりに描くことを主軸にしたエンタメ作品に他なりません。

 それは、サブリミナル的描写が複数挟まれる遊び心などからも明らかと言えます。

 

 

7.理想の自分を追い求めた末に出会えたもの

 ラストで、主人公はタイラーと対峙し、”銃で撃ち抜き”ます。

 そこには、タイラーと出会うまでの平凡な生活に戻ってしまうという悲観的な様子は全くありません。それはなぜか。おそらく、理想の自分を理性により抑え込むことに成功して主人公が一回り成長した、という達成感があるからでしょう。

 主人公は、成長した自分、という意味で別の自分に出会えたのです。

 また、マーラへの真実の愛にも”出会う”ことができました。ラストになって正面からマーラに向き合い、心からの愛を確認します。この映画のエンディングを飾る(サブリミナルは置いておき)、爆発するビル群を背景にマーラと手を取り合うシーンはとても美しいです。

 

8.おわりに

 この映画は語るポイントはいくつもあります。

 と同時に、ごちゃごちゃ語るのは野暮で娯楽作品として頭空っぽにして観ればいいという風にも思います。

 いずれにせよ、1回は見て欲しい作品です。

 

 

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