他人と知りせばかけざらましをーマスクのある生活
それは師走の終わりの寒い夜だった。
街中を歩いていると、大学院時代お世話になった先輩とすれ違った。
いや、厳密に言えば先輩と似てる人、なのだが。
この先輩は大学院生時代、勉強や人生の相談に乗ってくれたり、困った時には進むべき道をさらりと示してくれる、頼りになる人だった。
昼夜を問わず飲みに行っては法律や人間関係の話に盛り上がり、こんな面白い人物に出会えるなんて、大学院まで進んで良かったと、そう思えるほどに敬愛できる先輩だ。
そんな恩人とも呼べる人だが、お互い大学院を卒業して職に就いてからは自然と疎遠になってしまっていた。
コロナのせいもあるかもしれないが、尊敬してやまない先輩であるが故、同期や友達と同様に接するのとは違った配慮をしてしまい、なんとなく近況報告程度の連絡以外はとらなくなってしまっていたのだ。
そんな先輩と偶然街中ですれ違ったのだから、驚いた。
場所は横浜の繁華街の路地。おそらく仕事帰りなのかスーツを着ていた。
全体的にウェーブがかかった髪質とヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばしたであろう前髪。
まぎれもなく私の知る先輩だった。
私はすれ違った後、一瞬の間をおいて振り返り、その人の名前を呼んだ。
マスク越しで声がこもったのか、1回では気付かれなかった。
もう一度名前を呼んで、「おつかれさまです!」と声をかけてその人の背後に近寄った。
その人は私の声に驚いたように振り返った。
そしてまじまじと私を見つめ、「はい…?」とだけ答えた。
私は違和感を覚えながらその人の近くへさらに歩み寄った。
至近距離で見たその人は、知らない人だった。
全くの他人だった。
体格、髪型、雰囲気、すべてがそっくりなだけの、赤の他人だった。
至近距離でまじまじと見たら、目の大きさや涙袋の膨らみなど、顔のパーツが私の知っているそれとは大分違っていた。
私は、目が悪かった。
「あ、すみません。間違えました。」。私は小声でそう言うしかなかった。
その人の方も、私の顔を見て全く知らない人だな、と判断できたのだろう、軽く会釈をしてから、それまでと同じようにまた歩みを始め、去って行った。
残された私は、その人の背中が夜の街に消えていく様子を、呆然と眺めていた。
恥ずかしくてその場を逃げ出したい、という気持ちはなく、恥ずかしさと愚かさと先輩への懐かしさとが混じった複雑な感情が体全体を包み込んでいた。
先輩は最近何をしているだろうか。仕事で忙しいだろうか。また食事に誘ってみてはどうだろうか。
他人と知っていたら、声をかけずに済み、そして恥をかくこともなかったであろうに。
そんなことを考えながら、私はまた、家路に向かって足取り重く歩き始めた。
寒波が到来した師走の冷たい風が、私の歩みをより一層重くさせた。
以上